知らないは宝物
昨日テレビでちりめんじゃこというものを始めて知りました。食べた事はあったのですが名前を知りませんでした、しらすの干からびたやつという認識だったので。
これからはしらすは干すと美味かね、ではなくちりめんじゃこ美味しいと言えるのです。世界が少し広がりました。
私は知らなかった物を認識した時、新しい世界を見た、世界が広がった気分になります、ドキドキします。
知らないは宝物
これは何か賢そうな人とTwitterで話してて生まれた言葉です。
中々良い言葉だと自負しております。
知っている事も素晴らしいですが知らない事もまた素晴らしいのです。
最近見たテレビで思ったのが、
私の世界が狭いから、形が変だからと言って笑われるのは納得行かない、です。
世界が広い事が世界が自分より狭い人を叩くツールになってはいけないと思うのです。
それに広いが狭いを嘲笑う事は非常に虚しい。
だって結局は上には上がいるわけで。
ある人は牛豚鳥の違いがわからない、私はその区別は出きるが、牛のブランドはさっぱりわからない。またある人は牛豚鳥を食べられない。色々でさぁねぇ。
それぞれ歩んできた道筋は違います。当然道すがらに見える風景も踏んだうんこの数も違います。
だから人によって知っている事の分野や量が違うのは当たり前、むしろ同じだと困ります。
違うからこそいろんな人と話をして新しい発見が出きる。
お前ウサギの糞しかみたことねぇの?
俺熊のうんこひろったでぇ!
はい、虚しい。
私がこう考えるようになったのは中学3年の時です。
私は県内トップの高校を狙っていて必死に勉強し、偏差値至上主義の世界に生きていました。なので勉強ができないやつはクズだと認識していたのです。
そんな時期にクラスの鉄ヲタと隣の席になりました。彼は全く勉強をせず授業中もずーっと電車の絵を書いたり時刻表を眺めていたのです。バカだなぁと思いました。
その頃、うちのクラスの一部はなぜかしりとりに夢中でした。
私はかなり強くてそれは偏差値の高さに依るものだと考えていたのですが、その鉄ヲタとやったとき惨敗しました。
私は彼に「い」攻めをした訳ですが、
彼は電車のEF63形みたいな車両形式だとかいうやつを延々と出してきて「い」のカウンターアタックを喰らって撃沈されました。
一個一個説明を求めたら、彼は全て詳しくどこをどう走る電車なのかとか色々話してくれました。
その話が全く私の知らない世界の話でとっても面白かった。
そこで気付きました。
知らないって楽しい、世界は広い(ドヤッ)
彼としりとりをしなければ私は彼や偏差値の低い人を見下し続けたままだったし、いずれ偏差値が下がっていく自分をクズだと鬱になっていたかもしれません。
まぁマダオには変わりないんですがね。
とりあえず今日も知らない事を知るために銀の匙を見てます。総排泄腔、覚えた。