自国日記

来世で立派なメジャーリーガーストライカーになるために。

一度立ち止まって考えてみたらいいんじゃないかな。エスカレーターとか!!!

立ち止まると怒られる世界って怖いですよね〜(エスカレーターの話ですよ、ええ、たぶん)。

エスカレーターの設計だの摩耗するだのってお話は三菱さんや日立さんにおまかせするとして、利用者としては単純に、危険なので歩くのをやめろくださいというお話です。

 

ご存じないかもしれませんが、世の中は五体満足頑健強固な人間だけで構成されている訳ではございません。片側でしか掴まれない人、他人にぶつかられたらただじゃ済まない人は大勢います。単純に10歳以下の人間だけでも人口の約10%います。

 

その人たちへ、「片側へ寄れ。ぶつかるのが嫌ならもっと隅に寄れ」と主張されるのは、えっと、普段何をされてる方なの?反社会的活動?

 

輸送効率のお話をしてくださるのは結構ですけれど、子供を踏みつけにしてまで効率を大事にしたいならば人間は向いてないので、改造手術でもお受けになったほうがよろしいかと思います。イーー!

 

「何を今更」と言うお話に関しましては、かつて歩行を奨励したらしい鉄道会社等への愚痴として言うのなら分かります。けれど慣習を変えないご自分を正当化される際の根拠として用いる場合には、蚊取り線香を使用した途端に島流しとさせていただきます。

 

「歩けるような設計やデザインにしているのが悪い!」は本当にその通りなんですけど、これまた貴方が歩く事とは別の話ですね。電子レンジで猫を乾かしてはいけませんよ。

 

ってかさー!今どき「エスカレーターは立ち止まってご利用ください」ってあちこち張り紙してあんじゃん?なぜそれを守れない。

 

単純に片側を空けてるのが気持ち悪いし、立ち止まってと書いてあるので、余裕があるときは、歩く側として空けられている側に立つようにしています。

できるのは余裕があるときだけです。

だって、それに対して怒鳴る人、蹴る人、押しのける人、「後ろ詰まってますよ」と善人ぶって声かけてくる人、と様々いるから。普通に怖いからね。

彼らのこのエネルギーがあるならきっと世界のエネルギー問題は大丈夫かもしれない。

 

先日、目の前のお子様がエスカレーターの右側に立っていたのですが、親御さんが慌てて左側にお子様を寄せて防御していらっしゃいました。お子様にこんな窮屈な思いをさせなければならないことが申し訳なく、恥ずかしく思いました。

 

それと手術の帰りだった日、患部にぶつかられたら悶絶だったので、右側で立ち止まって流れを止めてくれた方が神に見えました。ありがとうございました。

 

六本木は森美術館に向かう途中のエスカレーターには足跡が付いてました。どの程度効果があるのか不明ですが、個人的には好きでした。

 

忙しいと心を亡くしますからね、のんびりいきたいですね

カレンダーを貰って日々をめくれるようになった

カレンダーをもらいました。ずっとカレンダーのある生活に憧れていて、探していることは口にしていたが結局見つからないまま春を迎えていたタイミングでした。

だって憧れるじゃないですか、壁にかけたカレンダーに急にバツ印書き込んでみたりとか、デートの約束でいっぱいにしてみたりとか。

貰ったのは、どこかの作家さんが作った、毎月1枚の絵が入っている素敵なもの。

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どこからでも見える、部屋の一番お気に入りのところに飾りました。

正直、毎日見たりはしない。当然視界には入っているけど、日程を確認するのはもっぱらGoogleカレンダー。小さいのと、あまりに素敵なカレンダーなので、Xdayを書き込んだりもしない。

それでも、視界にちらっと入るたびに、気づいていても気づいていなくても、少し気分が上がる。カレンダーそのもの良さと、家にカレンダーがあることへの嬉しさと、くれた人への気持ちによって。

そして一番嬉しいのが、なんといっても、めくる時。次の月へ入れ替える時。

毎月最終週になるとワクワクしてしまう。遠足もクリスマスもないのに、次の月のカレンダーをめくることにワクワクしている。

次の月は何の絵だろうか。ぶどうだー!9月は絶対ぶどう食べよう!と9月1日もはしゃいだ。

あって便利な存在かはわからないけど、あったら日々がたのしい存在がカレンダー

終わり無き戦い「ボール蹴り」

f:id:abarth6522:20210514212933j:plainきっと僕らのボール蹴りにゴールなんて、終わりなんて無かったんだ。


夏休みの小学校、特に誘い合うでもなく「なんとなく学校でも行くかぁ」で集まった面識もそこそこ、下は小学校低学年から上は高校生の子供達二十人弱。

熾烈な鬼決めじゃんけんと共にボール蹴りは始まる。ボール蹴りとは缶蹴り(主に缶)のデメリットである、すぐ潰れて使えなくなる、ぶつかると怪我する、小さくて踏み辛い、蹴ると音がうるさい、そもそも空き缶が無い、等を考慮し代わりとしてボール使用する。そう、球技。

高校生の兄ちゃんがグラウンドの彼方へとボールを飛ばす、そして子供達は校内のあちこちへと散る。

鬼が定位置に戻るまで約1分、やるべきことはシンプル。

鬼に見つかりにくく且、鬼の行動を把握しやすい拠点を見つけることだ。

多くの場合、隠れる場所といってもそう多くはないので何人かとチームのようになる。このメンバーとは青のうちのだれかが鬼にならない限り1日行動を共にする。

このボール蹴り、実は団体競技。いかに鬼の位置を把握しそれを味方と正確に共有しいつか来る反撃のチャンスに連携できるか。れっきとした戦なのだ。各々DSのカメラで壁から出ずに鬼を確認したり、裏を回って逃走経路を確保したり、他チームと交渉して共同作戦を練ったりする。

ボール蹴りは朝の9時から昼まで、そしていったん帰宅した後、昼から夕方の鐘がなるまで続く。

時間の限り何度も何度も。休憩はない。

終わるころにはチームメイトは戦友となり熱き絆が生まれている。

しかしこのメンバーが最高だ、と確信しても、同じメンバーが集まる事は二度とない。みんな気分で集まっているし、それが気楽で好きだから。

そしてだからこそこのボール蹴りにゴールは無い。メンバーが入れ替わりながらいつまでも続いていくのだから。

カカロットヲ称エル為ニ富士額ヲ貶スナ

テレビでどっかのバンドの感動ストーリーを再現ドラマしていた(新動詞)。

ある曲ができた過程における良い話。

たしかに素晴らしい話で元々嫌いだったそのバンドと曲に多少なりとも好意が沸いたがその後がむかついた。バンドじゃなくてフジテレビに。

その曲に対する人々の賞賛の声が流れた。しかもTwitterの切り貼り。

テレビがネットの声に頼ってどうすると毎度イラつくがそこはどうでもいい。

四つくらいしかなかった一つに

「きっとこの国を救うのは偉い政治家じゃなくってこの人たちだ」とあった。

いやいや「偉い」を政治家に使うなんていつの時代か、そもそも政治家は国を救うために存在してない、国という制度を維持するための存在、とか言ってしまって妹に「マジレスうざ」と刺されたがそこでもない。

何かを称ようとするときに別の何かを貶すなよ、というわけですよ。

もうこれ以上ベジータを貶すな。エリートの血なのにとか一回暗黒面に落ちて力を手にしたとか、最初は強そうだったとかを使って悟空を上げようとするな。

 

何がいけないって褒めようとした対象が常にマイナスを背負わないと存在できなくなるってこと。

それを聞かされると菅を利用しないと褒められないほどWANIMAは腐ってんのか?と思っても仕方ないでしょうよ。

と、無限比較回廊に迷い込んでいた、今でも迷い込む自分にイラついた次第。

 

こんなにイライラしていたのは最近この番組が再現ドラマを捨てて衝撃動画に走ったことにも大いに原因がある。さっさと才勝さんを町工場とか弱小出版社で活躍させろ!

あ、でもコロナで難しいのか。ならしょうがない。申し訳ない。

いつまでも才勝さんを待っています。

www.kira-boshi.com


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将来どころか昼飯の献立さえ決められない俺は。

普段夕飯の残り物を適当に見繕って昼飯にするという非常に怠惰で甘えた生活を続けているせいか、与えられたものがないと何も決められません。

さらに空腹によって脳が機能停止しかけているので何も決められない。早くしないとおやつの時間になってしまうし甘やかして育てた筋肉が分解されてしまうという訳も分からない焦りで胸が締め付けられる。

一体どうしたらいいんだ。Google 先生に昼飯と聞いても多すぎる選択肢をぶつけてくるだけでなんの助けにもならない。

一瞬将来への不安がよぎった気もしたがそんなものは現在の飢餓への恐れからしたらどうでもいい。

冷凍パスタかカップ麺という選択肢もあるが中性脂肪を慮ると気乗りしない。かといって何か料理するのも。

何か手間もかからずご飯に乗せるだけでいいもの…

納豆か、納豆がある。

いやしかし、昼の納豆ほど不味い物はない。

朝は気温の低さとまだオネムの嗅覚で腐った匂いが抑えられ美味しく頂けるが昼は違う。

生暖かい室内に我が物顔で漂う腐臭、空腹により数段強化されている鼻、目覚めた脳を掠めるねばーるくん。

そんな状況で食べる納豆は腐った豆だ。腐った豆だ。腐った豆だ。

 

 

 

数が好きで恐くて

大きい数が好きで恐ろしいです。

 

昔から数字がどんどん大きくなっていくとワクワクしてしまうんです、それが何を意味するかは関係なく。

得体の知れない、決して全容を把握できない存在への好奇心。学校で億を超えていく単位を習った時の興奮はたまらんものがありました。

 

それも全て、数字が増えること、数がでかいことを魅力的に感じるマイナスの情操教育されすぎたせいです。

算数をまともに習う前からlv.100が最強という世界でふしぎのアメを崇めたり何千という攻撃力でダイレクトアタックし合ったり宇宙人の53万に震え上がったりとそういう教育を受けているから。そしてそれらが桁すっ飛ばして上がり続け今や兆を超す、という超ジャンプ的インフレを浴びてきたから。

ハンバーグ師匠みたいな人が書く小説だって取り扱う金額が町工場から国家事業へと雪だるま式にデカくなって行く。

1より百、百より万、万より兆、兆より無量大数

こう考えてみると自分だけじゃなくデカイ数字は皆が好きなのかもしれない。

 

ともかく、デカイ数字はただそれだけで魅力的に見えてしまう。

 

問題なのはこの数字への好意は時と場所なんて考えてくれなかったこと。

 

この好奇心が恐ろしい物だと知ったのは震災の時でした。

毎日のように街が抗いようのない力に飲みこまれる様子がテレビに映っていた時。

何千何万と増え続ける死者行方不明者の数を見てもっと上がれ、とワクワクしている気持ちが自分の中にある事に気づきました、ショックでした。

正直、うちの地域は大きな揺れこそありましたが水槽の水が溢れる程度しか被害と呼べる事は無かったので震災をそこまで自分事に考えることができていませんでした。でも大変な事は分かっているつもりでした。いっぱいの人が死んでいっぱいの人が苦しんでる、と。

 

なのに、なのに自分はそんな大変な目にあっている人の数が増えて喜んでしまっている。

とりあえずこの時は震災関連ニュースをできるだけ無視しました。

自分がサイコパスみたいに思えてくるのが怖くて。

 

それからはしばらくこの怖さを忘れていたのですが、最近のコロナ感染者数で思い出しました。

何百、という数字に物足りなさを感じている所が頭の何処かにあります。

 

別に人が困ったり苦しむ事自体を喜んでいる訳じゃないから問題ない、数字は数字、と無理矢理捉えてもダレニモ迷惑はかからないんですがこの不謹慎さ非情さ、それと"所詮安全圏の人間感"がとても悪に思えてなりません。

 

でもこのワクワクは俺のモンだ、とも思います。

捨てちゃならないと思います。

抱えてしっかり変な方向へ行かないよう監視して、言う時と場所を間違えないようにするしかない

「急に寒くなりましたねぇ」

今月に入って既に4、5回、何十年いや何百年と繰り返されてきたであろう

「急に寒くなった」

という話を犬の散歩ですれ違う名前も家も分からない、顔もよく覚えてない、むしろ犬で判別している、けどよく会う人達、としました。

 

昔、ありきたりな事をやたらと嫌悪していた時期には、天気の話なんて絶対有り得ない!と思っていました。

そんな無味無臭の話をした日には自分のオリジナリティ的な何かが死ぬ、みたいな。

 

じゃあどうするんだ、と。

殆ど共通点もなく情報もないのにしょっちゅう会う人達とほんの束の間にどんな会話をしろと言うんですか。

犬連れおばあちゃんと「ちょっとそこまで生討論」でもしろってんですか、そんな無茶な。誰もそこにエネルギー使いたないよ。

代案もないのに文句ばっか言うんじゃない。

 

 

そもそも挨拶した後のちょっとした間に記憶に残る会話なんて誰も求めちゃいない。犬同士が挨拶済ませるまでの数分もしくは数十秒を誰も損しないように気まずくならないようにちょっとだけ喋るんだ。

ここに政治もコロナも地神利夫もいらない。

 

そんな時の話題として天気を超えるものは無い。誰にだって共通の話題ですからね基本。ヒッキー百万人を除いたほぼ全人類に関わって来ますからね。ヒッキーだって天気くらい気にしますよ、たまには、ほら低気圧で体調崩したりはしますから。それに毎日変わるから終わりが無い。

そう、終わりが…ない…この時はそう信じていたんだ…