終わり無き戦い「ボール蹴り」
きっと僕らのボール蹴りにゴールなんて、終わりなんて無かったんだ。
夏休みの小学校、特に誘い合うでもなく「なんとなく学校でも行くかぁ」で集まった面識もそこそこ、下は小学校低学年から上は高校生の子供達二十人弱。
熾烈な鬼決めじゃんけんと共にボール蹴りは始まる。ボール蹴りとは缶蹴り(主に缶)のデメリットである、すぐ潰れて使えなくなる、ぶつかると怪我する、小さくて踏み辛い、蹴ると音がうるさい、そもそも空き缶が無い、等を考慮し代わりとしてボール使用する。そう、球技。
高校生の兄ちゃんがグラウンドの彼方へとボールを飛ばす、そして子供達は校内のあちこちへと散る。
鬼が定位置に戻るまで約1分、やるべきことはシンプル。
鬼に見つかりにくく且、鬼の行動を把握しやすい拠点を見つけることだ。
多くの場合、隠れる場所といってもそう多くはないので何人かとチームのようになる。このメンバーとは青のうちのだれかが鬼にならない限り1日行動を共にする。
このボール蹴り、実は団体競技。いかに鬼の位置を把握しそれを味方と正確に共有しいつか来る反撃のチャンスに連携できるか。れっきとした戦なのだ。各々DSのカメラで壁から出ずに鬼を確認したり、裏を回って逃走経路を確保したり、他チームと交渉して共同作戦を練ったりする。
ボール蹴りは朝の9時から昼まで、そしていったん帰宅した後、昼から夕方の鐘がなるまで続く。
時間の限り何度も何度も。休憩はない。
終わるころにはチームメイトは戦友となり熱き絆が生まれている。
しかしこのメンバーが最高だ、と確信しても、同じメンバーが集まる事は二度とない。みんな気分で集まっているし、それが気楽で好きだから。
そしてだからこそこのボール蹴りにゴールは無い。メンバーが入れ替わりながらいつまでも続いていくのだから。
カカロットヲ称エル為ニ富士額ヲ貶スナ
テレビでどっかのバンドの感動ストーリーを再現ドラマしていた(新動詞)。
ある曲ができた過程における良い話。
たしかに素晴らしい話で元々嫌いだったそのバンドと曲に多少なりとも好意が沸いたがその後がむかついた。バンドじゃなくてフジテレビに。
その曲に対する人々の賞賛の声が流れた。しかもTwitterの切り貼り。
テレビがネットの声に頼ってどうすると毎度イラつくがそこはどうでもいい。
四つくらいしかなかった一つに
「きっとこの国を救うのは偉い政治家じゃなくってこの人たちだ」とあった。
いやいや「偉い」を政治家に使うなんていつの時代か、そもそも政治家は国を救うために存在してない、国という制度を維持するための存在、とか言ってしまって妹に「マジレスうざ」と刺されたがそこでもない。
何かを称ようとするときに別の何かを貶すなよ、というわけですよ。
もうこれ以上ベジータを貶すな。エリートの血なのにとか一回暗黒面に落ちて力を手にしたとか、最初は強そうだったとかを使って悟空を上げようとするな。
何がいけないって褒めようとした対象が常にマイナスを背負わないと存在できなくなるってこと。
それを聞かされると菅を利用しないと褒められないほどWANIMAは腐ってんのか?と思っても仕方ないでしょうよ。
と、無限比較回廊に迷い込んでいた、今でも迷い込む自分にイラついた次第。
こんなにイライラしていたのは最近この番組が再現ドラマを捨てて衝撃動画に走ったことにも大いに原因がある。さっさと才勝さんを町工場とか弱小出版社で活躍させろ!
あ、でもコロナで難しいのか。ならしょうがない。申し訳ない。
いつまでも才勝さんを待っています。
将来どころか昼飯の献立さえ決められない俺は。
普段夕飯の残り物を適当に見繕って昼飯にするという非常に怠惰で甘えた生活を続けているせいか、与えられたものがないと何も決められません。
さらに空腹によって脳が機能停止しかけているので何も決められない。早くしないとおやつの時間になってしまうし甘やかして育てた筋肉が分解されてしまうという訳も分からない焦りで胸が締め付けられる。
一体どうしたらいいんだ。Google 先生に昼飯と聞いても多すぎる選択肢をぶつけてくるだけでなんの助けにもならない。
一瞬将来への不安がよぎった気もしたがそんなものは現在の飢餓への恐れからしたらどうでもいい。
冷凍パスタかカップ麺という選択肢もあるが中性脂肪を慮ると気乗りしない。かといって何か料理するのも。
何か手間もかからずご飯に乗せるだけでいいもの…
納豆か、納豆がある。
いやしかし、昼の納豆ほど不味い物はない。
朝は気温の低さとまだオネムの嗅覚で腐った匂いが抑えられ美味しく頂けるが昼は違う。
生暖かい室内に我が物顔で漂う腐臭、空腹により数段強化されている鼻、目覚めた脳を掠めるねばーるくん。
そんな状況で食べる納豆は腐った豆だ。腐った豆だ。腐った豆だ。
数が好きで恐くて
大きい数が好きで恐ろしいです。
昔から数字がどんどん大きくなっていくとワクワクしてしまうんです、それが何を意味するかは関係なく。
得体の知れない、決して全容を把握できない存在への好奇心。学校で億を超えていく単位を習った時の興奮はたまらんものがありました。
それも全て、数字が増えること、数がでかいことを魅力的に感じるマイナスの情操教育されすぎたせいです。
算数をまともに習う前からlv.100が最強という世界でふしぎのアメを崇めたり何千という攻撃力でダイレクトアタックし合ったり宇宙人の53万に震え上がったりとそういう教育を受けているから。そしてそれらが桁すっ飛ばして上がり続け今や兆を超す、という超ジャンプ的インフレを浴びてきたから。
ハンバーグ師匠みたいな人が書く小説だって取り扱う金額が町工場から国家事業へと雪だるま式にデカくなって行く。
1より百、百より万、万より兆、兆より無量大数。
こう考えてみると自分だけじゃなくデカイ数字は皆が好きなのかもしれない。
ともかく、デカイ数字はただそれだけで魅力的に見えてしまう。
問題なのはこの数字への好意は時と場所なんて考えてくれなかったこと。
この好奇心が恐ろしい物だと知ったのは震災の時でした。
毎日のように街が抗いようのない力に飲みこまれる様子がテレビに映っていた時。
何千何万と増え続ける死者行方不明者の数を見てもっと上がれ、とワクワクしている気持ちが自分の中にある事に気づきました、ショックでした。
正直、うちの地域は大きな揺れこそありましたが水槽の水が溢れる程度しか被害と呼べる事は無かったので震災をそこまで自分事に考えることができていませんでした。でも大変な事は分かっているつもりでした。いっぱいの人が死んでいっぱいの人が苦しんでる、と。
なのに、なのに自分はそんな大変な目にあっている人の数が増えて喜んでしまっている。
とりあえずこの時は震災関連ニュースをできるだけ無視しました。
自分がサイコパスみたいに思えてくるのが怖くて。
それからはしばらくこの怖さを忘れていたのですが、最近のコロナ感染者数で思い出しました。
何百、という数字に物足りなさを感じている所が頭の何処かにあります。
別に人が困ったり苦しむ事自体を喜んでいる訳じゃないから問題ない、数字は数字、と無理矢理捉えてもダレニモ迷惑はかからないんですがこの不謹慎さ非情さ、それと"所詮安全圏の人間感"がとても悪に思えてなりません。
でもこのワクワクは俺のモンだ、とも思います。
捨てちゃならないと思います。
抱えてしっかり変な方向へ行かないよう監視して、言う時と場所を間違えないようにするしかない
「急に寒くなりましたねぇ」
今月に入って既に4、5回、何十年いや何百年と繰り返されてきたであろう
「急に寒くなった」
という話を犬の散歩ですれ違う名前も家も分からない、顔もよく覚えてない、むしろ犬で判別している、けどよく会う人達、としました。
昔、ありきたりな事をやたらと嫌悪していた時期には、天気の話なんて絶対有り得ない!と思っていました。
そんな無味無臭の話をした日には自分のオリジナリティ的な何かが死ぬ、みたいな。
じゃあどうするんだ、と。
殆ど共通点もなく情報もないのにしょっちゅう会う人達とほんの束の間にどんな会話をしろと言うんですか。
犬連れおばあちゃんと「ちょっとそこまで生討論」でもしろってんですか、そんな無茶な。誰もそこにエネルギー使いたないよ。
代案もないのに文句ばっか言うんじゃない。
そもそも挨拶した後のちょっとした間に記憶に残る会話なんて誰も求めちゃいない。犬同士が挨拶済ませるまでの数分もしくは数十秒を誰も損しないように気まずくならないようにちょっとだけ喋るんだ。
ここに政治もコロナも地神利夫もいらない。
そんな時の話題として天気を超えるものは無い。誰にだって共通の話題ですからね基本。ヒッキー百万人を除いたほぼ全人類に関わって来ますからね。ヒッキーだって天気くらい気にしますよ、たまには、ほら低気圧で体調崩したりはしますから。それに毎日変わるから終わりが無い。
そう、終わりが…ない…この時はそう信じていたんだ…
良い子にしかなれなかったんだ
良い子を目指した理由がずっとわかりませんでした。
周りに良い人と思われたい、という欲の一種じゃないか、でも何か違う気がする。
でも今日ようやく気づけました。
残念ながら理由は自分にありませんでした。
単純。反射にも近い。
単に、怒られたくないから、でした。
叱られた時の全否定による絶望感、単純に怒鳴られたり殴られたりする恐怖、その後のきまづさに耐えられないと判断して先回りして良い子を目指した、というのが本当の理由でした。
ある種の生存戦略。
なんでそんな優等生なんて狭い世界の中でしか生きられないモンに飛びついたのかとずっと自分を訝しんでいましたが分かってみれば仕方のないことでした。どうしようもないしむしろ頑張った方でしょう。
幼少の自分を責める理由が消え去ってスッキリもしました。欲が深くて醜い、周りによく思われたいばかりに心を剥き出しにできない、と自己否定し続けていたので。
それに、自分の事をなんとなく器用な方だと、優等生を続けられなくなるまでの自分は器用貧乏な方だったと思っていたんですがとびきり不器用で安心しました。巧みに優等生演じてた訳じゃなかったんですね、それしかできなかった、そうせざるを得なかった。
「俺はこういう生き方しかできねぇから。」
いつか言ってみたいけど自分とは程遠いと思っていた台詞が手元に来て非常に満足しています。
誰かに貰った快楽が 僕の幸せとは限らないぜ
何年も追っかけていたシリーズが完結した時、録画して擦り切れる程繰り返し見ていた番組が唐突にBPOされた時、アレが連載期間より休載してる時、
いつもほっぽり出された気分になりました。
終わりを迎えられた嬉しさや行く宛のない怒りそして諦めとともに寂しさがやってきます。
いつまでも続いてほしいなんて残酷な事を考えているわけではありません。永遠と引き換えに毒を抜かれた青たぬきやケツ目少年を目の当たりにしておいてそんなことは言えるはずがない。
今までずっとどっぷり浸かってたはずだったのに手元にあったはずなのに急に違う世界だとつきつけられ線を引かれ取り上げられ蹴飛ばされる、それがただ寂しいのです。お前はそっち俺たちはこっち。
実際は最初っから入り込めてなどいないことなどわかっています、遠くから眺めて浸かっている自分を想像しているだけ。
結局は全て他人様の世界だから。
時たま復活するものもあります。大の大人のオムツ替えをテレビで披露して消されたざっくりハイタッチがyoutubeにて再起しました。
もちろん嬉しいし楽しい、なのにそれは寂しさを埋めてはくれません。
手の届かないもどかしさを再確認してより寂しくなりました。
この寂しさを消し去る方法はずっと前から知っています。
自分で作るしかない。
自分のが必要なんです。
でもどうしたらいいかわからない、ピーチ姫を助けた時からずっとそんな状態です。
寂しさや悔しさに耐えかねて作るのか諦めて終えるのか、でももう限界かもしれません。