もう死ぬから優しくしなきゃ
最近毎日老人ホームに行っています
祖母が死にそうだから。
好き嫌いが激しくほとんどの食事を拒否していたら本当に身体が何も受け付けなくなり、あっという間に危険な状態になってしまいました。半年前までは家でピンピンしていたのに。
この祖母の事はそんなに好きではありません。
わがままだし自慢話が多いし孫に上げる小遣いも兄弟で額が違う。
それでも会いに行きます。
「好きとか嫌いではなく家族だから」と言いたいし実際少しはそう思っていますが本心全てではないです。
実際は、祖母が喜ぶから。
もっと言うと
自分が存在するだけで喜んでくれる人がいると感じて安心するから。
自分が生きてて良いという安心感を得るために行っている、それが本当の理由です。
会いに行くからには祖母に嫌な思いをさせたくない、なので祖母への接し方を悩みました。
両親はなんでも彼女の望む事をやっています。
寿司が食べたいといえば特上を、身体が痛いと言えばマッサージを。
私もそうするべきなのでは、と。
けどどうしても嫌なんです。
「死にそうだから良くする。」
この感じが凄く引っかかるんです。
今までべったりくっつくようには接してきていません。
同じ家に住んでいたものの話すのは1日2、3回、たまに隣でぼーっとテレビを見たりゲームをしたりちょっと喋ったり、そんな感じです。
それなのに急に「おばあちゃん、おばあちゃん」と接したら祖母は「あたしがもうすぐ死ぬからこんなに良くしてくれるんだ。」と思うのではと考えてしまいました。祖母はそんなこと分からないかもしれないけど、自分が祖母の立場だったら嫌だな、と。
それに祖父の死に際での後悔もありました。
祖父が肺癌で亡くなる前、寝たきりになった時、なぜか幼稚園児に接するみたいに優しい声で手を握りながら喋ってしまったのです。
「おじいちゃん、がんばってね。」なんてどこから出したのか分からない声で。
きっとテレビで見た病人に接する感じを真似したのでしょう。
「あなたは死にそうなので特別な接し方をしています」感MAXです。
それまでは違ったのに。
「じいちゃん将棋やろ。」だったのに。
悲しかったろうな悔しかったろうなと今でも思います。
結局私は、何もしない、を選びました。
できるだけいつも通りに、近くに座って本を読んだりスマホを見たり妹とあっち向いてホイをやったり、たまに話して笑ったり。祖母が家にいた時と同じようにできるだけ自然に過ごそうとしています。
別にばあちゃんが死にそうだろうが元気だろうが会いに来るし喋るよ近くにいるよ、という姿勢をどうしても保ちたい、祖母には伝わらないだろうけど。
ただこれを父は良しとしません。
せっかく会いに来てるのにスマホなんかいじってんじゃねえ、と怒鳴ります。
いくらこちらの考えを話しても
「お前はおかしい」と言います。
本当に私はおかしいのでしょうか。
両親はなんでも望む事をやってあげたいという善意で動いています。しかし、それを強要してしまったら義務。
義務になると絶対に「やってあげてる」という上からの思いがでて、
マイナスな気持ちのぶつかり合いが起きます。
祖母のやってもらって申し訳ないという気持ちと
周りのやってあげてるという気持ち。
ここに良心なんて1つもありません。全員が不幸。
そうならない為に、やりたい人がやりたい所までやる。私は会いに行っていつも通りに接する。両親は望む通りにお茶を与えマッサージをする。
それでいいのでは、と思うのですが。
読んでくれた方、
良ければ少し教えて下さい。
追記
インク先生から1つ気持ちいい答えを頂きました。
〈してあげる〉でも〈何もしない〉でもなく最後だからこそ〈してもらう〉 https://t.co/nTFfV5DaOT
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年3月30日
どうしたらこう言える人になれるかしら
追追記
というか何もしないって何(笑)
たぶん「おかしい」と言われてすぐ、感情のままに書いたからすごい極端になってるですね。
やってほしいと言われたことはできるだけやってあげたいという思います。