早くおっさんになりたかった
年末年始には親戚で集まることが恒例の人は少ないもしくは多い。
いやだって日本人全員にアンケートととった事ないから正確な事は言えないし~
こんな中途半端な事言ってるとおじさんに間違いなく叱られます。
うちの親戚の集まりはそういうおじさんが多かった。親戚だけでなく近しい友人なども呼んでいたから。おじいさんや叔父さんや伯父さんやおじさん、まぁもれなく全員おっさんな訳で、色んな事をあーでもないこーでもないと顔を真っ赤にしながら喋る。
大抵の人は酔っ払いのおっさんは理屈っぽくてうるせぇと嫌がるかもしれないけど、俺はその場にいることが楽しかった。
それぞれ何かしら譲れない部分があって自分を持っていると思ったから。
そしてその頑固な部分を互いにすり合わせるどころか思いっきりぶつけあってしかも全く受け入れ合わないのに翌日はけろっと楽しそうに喋ってる。
羨ましかった。
年齢もバラバラなのに好き勝手語り合えるのが。互いを認められなくても続く関係性が。
俺が学校でお喋りしてるのとは違った。
俺は自分がどうというよりはその場を楽しくしようと喋る。だから基準は空気に合っているかどうか面白いかどうか。
自分の芯みたいなもんはなかったように思えた。
別にどっちが良い悪いはないはずだが俺に隣の芝は青く見えた。
そこから俺は無意識のうちにおっさんを目指した。
何に関しても断定的な意見を作って理屈っぽく喋るようになった。
そのせいもあってか高校ではじじぃと呼ばれた(これは不本意だった、だって俺はおっさんになりたかったから)
ただ最近気付いた。
何か物足りなかったし、アレルギー反応が出た。
自分の意見を正解だと信じて誰かと語らいしかも全く譲り合わずに盛り上がるというのは
ただの自慰行為ではないか。
誰かが存在する意味がない。
やはり俺は小さい自分だけの締め切った世界にとじ込もって埃まみれの空気を吸いながら生きるのはいやだ。
くしゃみと鼻水が止まらん。
とにかく、窓を開けて外の綺麗かどうかは分からないが少なくとも今の埃まみれとは違う空気を取り込んで、本も見映えよく並べて美味しいコーヒーでも入れて誰かを招く、そして次は招かれる。そういう自分が良い。
図書館にも美術館にも行きたい。
海で泳ぎたいし公園でサッカーもしたい。
よっておっさんを目指すのを辞めます。
わざわざおっさんにカテゴライズされに行くのは馬鹿だ。
人間は他人をカテゴライズした方が楽だからついついしてしまうが、自分をくくったらもうおしまいだ。自分であることを忘れてしまうから。
自分は自分。
中二がLINEの一言に書くくらいダサい言葉だかもしれないけど、いや中二はI am I と書くはず絶対。
なんでもそれっぽく喋れる等おっさんの良いところは頂戴しつつ…
とにかく窓を開けよう。